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災害と復興と元住民の願い

by 阿月まり

彼はパーティー会場の隅で黙々とビターバレン丸いコロッケを頬張っていたが、なんとなく気詰まりに感じ、会場の外に出ようと席を立とうとした時、中核メンバーの一人が「おい、大変だぞ!」と自身のタブレット端末を高く掲げた。
周りが一斉に注視すると、ローカルニュースの一面記事を会場の大型ディスプレイに映し出し、明るい笑い声がぴたりと止んだ。
『フェールダム臨海都市』。それが地元政財界の打ち出した再建計画の名前だ。

特に被害の大きかったフェールダムの北部――締切堤防のある湖畔から盛土堤防の内側、南北四キロメートル、東西幅二キロメートルにかけて、お洒落なシーサイドシティを建設しようというアイデアである。
デザインを手がけたのは、リゾート建築で定評のあるフランシス・メイヤー。学生時代に海上空港ターミナルビルの国際コンペで注目され、二十四歳で『サンシャインコーストの別荘』で国際的な建築賞を受賞した天才肌だ。その後、大手建築設計事務所にスカウトされ、数々の大型プロジェクトを手がけてきたが、四十歳で独立してからは講演、執筆、個展など、自身のアトリエを拠点にますます活動の場を広げている。
メイヤーの考案する臨海都市計画は、洪水で大きな被害を受けたフェール塩湖の東側湖畔の一部を埋め立て、宇宙基地のようなコロッセウム型のショッピングモールを中心に、低階層のオフィスビル、ホテル、アパートメント、高級建て売り住宅を建設する計画だ。また各所にはウォータースポーツ施設やマリーナを設け、水と緑が一体となったモダンなシーサイドリゾートを構築する。
これまでにもフェールダムの再建案は幾度となく持ち上がり、その都度、立ち消えてきたが、今度の臨海都市計画はフェールダムの在り方を根本から変えるものであり、地元政財界はもちろん、ネーデルラント政府や近隣諸国までもが期待を寄せていた。

だが、元住民にしてみれば「再建」というより「改悪」だ
そこに元住民の願いを叶えようという意思はさらさら無く、洪水で壊滅した土地を企業の都合よく再利用したいに過ぎない。
たとえば、建設予定のエリアには、現在も土地や家屋の権利を有する八十二世帯が存在する。彼もその一人だ。そのうち三十世帯は、すでに土地を売却したり、第三者に譲渡して法的手続きが完了しているが、他の四十二世帯は彼の家と同じように『保留』という形で存続し、残り十世帯とは全く連絡がついていない。自治体いわく、これらの放置された土地や家屋が再建の妨げとなっており、年内にも期限付で強制処分する方針だという。

被害を受けた後、家を建て直すわけでもなく、再びこの地に戻ってくるわけでもなく、瓦礫のまま放置している家と土地の所有者に対し、強い姿勢で決断を求める理由は理解できる。それによってフェールダムが大勢の望む形で再建されるなら、納得もするだろう。

だが、元住民の意向を全く無視した臨海都市計画の為に立ち退きを迫られるのは納得がいかない。瓦礫のまま放置している所有者にも責任はあるかもしれないが、洪水で家財一式を失い、各地を転々としながら、どうにか食いつないる世帯にとって、わずかな見舞金だけで瓦礫の撤去や家の建て直しを迫られるのは経済的にも負担が大きいはずだ。たとえ瓦礫の山でも、そこには愛する人と暮らした思い出があり、何年経っても癒えない悲しみがある。そうした葛藤も理解せず、まるで巨大ゴミのように一掃するのも腹立たしい。


*
これによりデンボンメルの森は完全に消滅し、湖畔の風景も全く違ったものになる。苗木は別のエリアに移植されるというが、どこに、どのように移し替えるのか、他に候補地があるとも思えず、体よく一掃しようという魂胆が見え見えだ。また復興対策強化地域として農地再生に取り組んできたエリアも大幅に縮小され、地方道の拡張や住宅地の建設が予定されている。
それはまさに住民の願いも伝統も根本から打ち砕くような改造計画であった。

「金になるからだよ」
ヤンがやりきれないように言った。
「以前と同じ豊かな農地を取り戻すには何年もかかるし、ちりぢりになった元住民が戻ってくるかも分らない。農地が再生するのを待つより、見栄えのいいリゾートシティを建設して、手っ取り早く観光客と居住者を集めた方が採算がいいからだろう。何より政府は主要工業都市から切り離されたデルタ地帯を近代化して、トリアドゲートへのアクセスを強化したい。ところが、デルタ地帯の干拓地は昔ながらの農場主や何代にも渡って住み続けている世帯が土地を手放したがらないからな。壊滅したフェールダムはうってつけの物件というわけさ」
「トリアドゲート?」
「そうだ。北海南端の海上宇宙港を中心とする、ばかでかいタックス・ヘイブンだよ。あそこで外惑星から運び込まれた鉱物資源や半製品を分配してる。国内ではあり得ないような免税や規制緩和がなされているから、いろんな企業や組織が絡んで、美味い汁を吸っているという話だ。以前は世界第一の貿易港といえばロッテルダムだったが、それも完全にトリアドゲートに取って代わられてる。ゆえに北海沿岸のデルタ地帯を強化して、工業地帯や輸送機能を拡張したいんだろう。メキシコ湾やアラビア海の宇宙ゲートに対抗する為にね」

「だとしても、臨海都市がフェールダムの救いになるとは思えない。どんな洒落たインテリジェントビルもいつかは老朽化する。道路も、橋も、マリーナも、いつかは摩耗して、補強が必要になる。その対策費も莫大だ。なぜフェールダムの干拓地は幾多の水害を克服し得たか、それは『土』には寿命がないからだよ。洪水で押し流されても、雨が自然に残留した塩分を洗い流し、土壌の微生物も再び栄養分を作り出す。その自浄作用と生命力こそ、真の社会の礎だ。リゾート施設など、一時は注目を集めても、新たなものが登場すれば人はそちらに流れる。所詮、目先の利益じゃないか。干拓地も締切堤防も百年の計の元に作られた。だったら、百年の計に従って再建するのが筋だろう」

「今となってはデルタ地帯もお荷物だからな。あらゆる水管理施設が老朽化して、毎年、莫大な維持費と改修費が必要だ。都市のキャパシティも風車の時代とは比べものにならないほど増大しているのに、住民は昔と変わらず保守的で、運河の土手にブロック補強材を敷設するだけでも環境破壊と騒ぎ出す。だから余計でフェールダムに対する期待も高いんだよ。ここの改造に成功すれば、他のデルタ地帯も梃入れしやすくなるからな」

「だからといって、あんな浮上パネル式のハイブリッド堤防が最善策とは思えない。父さんがいつも言っていた。堤防の第一義は人命を守ることだと。夜間のライトアップなど無くてもいい。未曾有の洪水や高潮に持ちこたえる頑強な堤防を作り直すべきだ。それに補強が必要なのは湖畔や北の沿岸部だけじゃない。東側の沿岸も、家屋の全壊こそなかったが、一メートルに及ぶ浸水で甚大な被害を出している。同じ工事を施すなら、水際一帯を強化すべきだ。フェールダム全域で人が安心して暮らせるようになって初めて、再建といえるんじゃないか」
「だが、その為には、自治体に十分な経済力とそれを支える人口が必要だ。大半の住民が戻らないのに、堤防や農地だけ整えてもどうしようもないだろう。臨海都市計画を後押しする側にも一理ある。町として復興するかどうか分らない無人の荒れ地を遊ばせておくより、地の利を生かして都市開発を進めた方が州全体の活性化に繋がる」
「だったら、金のかからない方法で再建すればいい。あと十年もすれば、塩害対策を施した土壌も息を吹き返す。木材チップを混ぜ込んで、畜糞ベースの堆肥を与えただけで、以前より大きな農作物が育つようになった場所もあるじゃないか。むしろ、耕作放棄で放置されている農場の跡地を以前と同じ豊かな農地に戻した方が帰郷しやすいはずだ。皆が皆、ロッテルダムみたいな工業都市で暮らしたいわけじゃない。元住民でなくても、デルタ地帯の牧歌的な暮らしを求めてる人はまだまだ存在するだろう。何億ユーロも投入して、本当にテナントが入るかどうか分からないショッピングモールを建設するより、既存の酪農家と共同で高機能堆肥の開発でもやった方がよほど実際的だ」
「確かにな」
どれほど時間がかかっても、土地が蘇れば、何十年、何百年と作物を実らせる。それこそデルタ地帯の生きた資産だよ。俺にはあんなモダンな臨海都市が農家と共存できるとは到底思えない。君は仲間が汗水流して土を耕し、植樹した場所をブルドーザーで掘り返されて、本当に平気なのか?」
「平気なわけないさ」
「だったら、なぜ強く抗議しない? 組織も大きくなって面倒を起こしたくない気持ちも分かるが、今声を上げなかったら、みすみす苗木を枯らすようなものだ。俺の父さんなら決して黙ってない。たとえ独りになっても闘うよ。意志もった人間としてね」

*

父が購読していたのは『Zivilisation』という創刊八十年を誇る土木専門誌だ。一口に「土木工学」といっても、河川、トンネル、空港、橋梁、鉄道など、対象は幅広い。
十冊、二十冊と目を通し、少し疲れて、あくびも出てきた頃、何気にめくったカラーページのパースに目を見張った。
左手前から右上方にかけて一直線に伸びるコンクリート堤防の内側に、緑豊かな人工地盤の町が造成されている。『ジオグリーン』と名付けられた人工地盤のイメージは、ロッテルダムに本社を置く世界有数の建設会社、ロイヤルボーデン社の広告用パースだった。
ジオグリーンは、有害物質を含まない廃棄物を利用して、海岸や河川周辺に人工地盤を造成する技術だ。土地全体の嵩上げや護岸強化に役立つだけでなく、表面を緑化することで、見た目も美しい町並みを作り出すことができる。
特に高潮や洪水などで被害を受けた土地に有効で、フェールダムのように水が引いた後も泥土と化し、塩害や地盤沈下で町の再建が難しい場所にも応用可能だ。たとえば、現地の汚泥を古紙屑や木材チップなどと混ぜ合わせ、地盤材料として再利用することで、より耐性に優れた低コストの人工地盤を造成できる。
広告から三十年経った今もジオグリーンは世界中で重宝され、水害で地盤がえぐられた河川敷の修復や海岸の防潮対策に絶大な効果を上げている。
こういう技術がフェールダムにも活用されたら再建にも弾みがつくだろう。あんな宇宙基地みたいなリゾート施設を建設するより、どれほど自然で、人に優しいかしれない。

--中略--

ヤンの提案で、早速、ウェブサイトに掲示板を設け、アイデア提供を呼びかけた。 
具体的にどこからどこまで地盤造成し、材料には何を用いるか。古紙や木片や煉瓦といった廃棄物をどのようにリサイクルし、土壌改造に活用するか。環境汚染の危険性はないか、等々。
また締切堤防の補強に関しては、ファンデルフェール工科大学の研究員が『インプラント工法』を提案した。老朽化が進む防潮堤や、水流などの変化により補強やかさ上げが必要になった堤防に大口径の鋼製構造物(パイプや矢板)を鉄柵のように土中深く埋め込み、防潮機能を強化する技術だ。
鋼製構造物を埋め込めば、基礎から堤防を作り直さなくても機能を強化できるし、内部の鋼製構造物が老朽化すれば取り替えも可能だ。既存の堤防をそのまま使うので、景観を破壊せず、工費や維持費も安く抑えられる為、大きな予算を確保できない地方の沿岸部や、技術的に堤防再建が難しいケースに好んで用いられている。
彼と三人の仲間はこれらの助言を取り入れて、アイデアを膨らませた。
日に日に形を成す『緑の堤防』を見るうちに、もしかしたら、この方法で昔ながらの干拓地が蘇るのではないかと期待が高まる。
そして彼自身も、これまでにない高揚感を覚え、今度こそ水の底から立ち上がれるような気がするのだった。

*

ヴァルターとヤンは二日後に開かれた説明会に参加し、コンペの詳細を確認した。
狭い会場には大勢が詰めかけ、椅子に座りきれない人たちが壁際にもずらりと並んでいる。
「どういうことだ? 一地方のアイデアコンペなのに」
彼がヤンに耳打ちすると、
「フェールダムの再建事業を狙ってるのはフランシス・メイヤーだけではないということさ」
「それにしても業界面ばかりだ」
「だから前に言っただろう。政府はデルタ地帯を抜本的に改革したい。その為にも、従来にない強力なモデルプランを打ち立てる必要がある。フェールダムはその足掛かりだ。地元企業でなくても興味が湧く」
「じゃあ、企業や専門家も多数参加を?」
「コンペに参加するかどうかは別として、いろんな意味でアプローチはするだろう。あの窓際に立ってる人も情報収集が目的だ。何となく分るんだよ、同業者の匂いでな」
彼は改めて会場内を見回し、住民の意思とはかけ離れたところで再建案が取り沙汰されている気配を感じ取った。治水研究会が再三訴えたにもかかわらず、締切堤防の補強案が寸前になって反故にされ、可動式大防潮水門の改修工事が優先されたのも、そうした陰の思惑だったのかもしれない。
説明会が終わると、二人は締切堤防に足を運び、洪水で決壊した場所を訪れた。
あれから十五年の歳月が過ぎ、堤防も何度か補強工事を重ねて、ほとんど昔と変わらぬ景観を取り戻している。
こうして堤防の天端に立ち、右手に北海、左手にフェール塩湖、海岸線に添って突き抜けるような四車線の湾岸高速を見ていると、本当にあれほどの大洪水があったのかと不思議に思うほどだ。
だが、堤防や道路が元通りになったからといって、あの晩、全てを失った人々の悲しみがすっかり癒えるわけではない。たとえ見栄えのいい商業施設が建設されても、冬の北海を見る度に悲しみを新たにするだろう。
彼は青く広がる海を見渡し、
この海の何処か――海底の冷たい泥の中に、今も俺の父親が眠っている。叫ぶことも、立ち上がることもできず、無念を抱いたまま、この町の行く末を見守っている。あの晩、この辺りがどんな風だったか、俺には想像もつかない。海面が十メートルも上昇して、ここまで押し寄せるなど、誰が予測できただろう。きっと父も怖かったはずだ。足元には激しい波が打ち付け、背後には河川から流れ込んだ大量の水が渦巻いている。どこにも逃げ場はなく、いつ高波に呑まれるかと、総身が震えるほど恐ろしかったはずだ。それでも逃げなかった。俺に自分の生き様を見せる為に、堤防を守りに戻った。父さんだけでなく、最後までここに残った作業員も同様だ。そして今も、骨一本になっても、この町を守ろうとしている。俺たちは皆、彼らの子供だ。その想いに答えたい。このまま黙って見過ごしたくない
「だが、太刀打ちできるような相手じゃないぞ。相手は百戦錬磨のベテランだ。政財界にも顔が利く」
「だから、やるだけ無駄だと言いたいのか? コンペの目的は勝つことだけじゃない。公の場で声を上げる機会でもあるはずだ。社会に疑問を呈するだけでいい。このまま大きな流れに呑まれたくない」
「だが、クオリティの高い作品を作ろうと思ったら片手間には無理だ。どれほど絵(パース)が綺麗でも、技術的に裏打ちされたものを提示しなければ、同じ土俵に立つことすらできない。お前にそれだけの覚悟があるのか。海洋調査の仕事をしながらでは到底無理だぞ」

*

フランシス・メイヤーは、オーストラリアを拠点にホテル業やリゾート開発を手がける『メイヤー&パーマー・グループ』の御曹司だ。両親や兄妹はもちろん、叔父叔母、従兄弟、末端の親族に至るまでグループ経営に携わり、その閨閥も政財界、スポーツ、芸能に至るまで幅広い。創業百二十年、今や世界の観光都市で『メイヤー&パーマー』の看板を見ない場所はないほどだ。
その中で、次男のフランシスだけが建築家として花を咲かせ、経営よりもクリエイティブな分野で活躍している。学生時代に海上空港ターミナルビルの国際設計競技に入賞して注目を集め、その後も権威ある建築賞を立て続けに受賞して天才と称された。二十代から三十代にかけて著名な設計事務所『Kool Architects』で研鑽を積んでいたが、四十歳で独立してからは、個展や講演会、作品集の刊行など幅広く手がけ、ますます盛名を馳せている。
今年四十七歳、その野心は止まることを知らず、フェールダム以外にも複数のプロジェクトを抱えて精力的に動き回っている。

やがて学生ホールの演壇にフランシス・メイヤーが姿を現すと、二百名以上の聴講者が一斉に歓声を上げた。
実物のメイヤーは、パンフレットのポートレートより少し老けて見えるが、背はすらりと高く、ほとんど贅肉のない体躯に杢グレーのタートルネックシャツと黒いカジュアルジャケットをスマートに着こなしている。頬骨は高く突き出て、鉤鼻が盛り上がり、お世辞にも美男とは言えないが、SF映画の科学者みたいなテクノカットをプラチナアッシュ(銀灰色)に染め、いかにも天才肌といった風貌だ。大勢の歓声に応え、にこやかな笑みを浮かべているが、ノンフレームの丸眼鏡の向こうで用心深く見開かれた淡緑色の眼は決して笑っていなかった。
プロジェクタの用意が調うと、メイヤーは流ちょうな英語で話し始めた。オーストラリア出身でありながらオーストラリア英語を話さず、意識してイギリス英語を話しているのが印象的だ。
メイヤーは自身の手がけた作品を次々にプロジェクタに映しながら、ウォーターフロントにおける美の哲学、未来の展望、建物の安全性などを淀みなく語り、時にジョークを交えながら場を盛り上げる。それは場慣れした人の喋りであり、大衆の好みを知り尽くした見事なパフォーマンスだった。
やがて話がフェールダムに及ぶと、彼は聞き耳を立て、その真意を探った。
メイヤーのコンセプトを一言で要約すればrebuild(リビルド)だ。
単純に施設をリニューアルするだけではない、新しい景観と都市機能を通した「社会の再構築」である。
「宇宙の植民地に目を向けてみよう。そこには国もなく、強い民族意識もなく、人々は開発という一つの意思に結ばれ、調和のとれたコミュニティを形成している。君たちに必要なのは、国や人種を越えた『意思共同体』としての新しい社会の構築だ。フェールダムの洪水は悲劇だった。だが、旧き世界が一掃され、まったく新たな社会を構築するチャンスでもある。進歩。革新。創造。君たちはこれらの言葉を錦の御旗のごとく掲げ、果敢に挑戦しようとするが、その多くは旧い価値観の焼き直しに止まっている。こうあるべきと信じるものは根元から壊せ。創造とは疑うところから始まる。フェールダムはそのルーツを断ち切っても、前に進まねばならない時期に来ているのだ」

だが、彼は懐疑的だ。
どれほど社会が進歩しようと、人間は「自分が何ものであるか」に帰着する。生まれ育った土地の文化や歴史、両親から受け継いだ教えや価値観から死ぬまで離れることはない。
宇宙の植民地にだってアイデンティティの基盤となるものがあるはずだ。
代々受け継がれる文化、母国語、生まれ育った町の歴史、等々。
それらを壊すことは、自身のルーツを断ち切ることでもある。
社会の再構築と簡単に言うが、個々が足を着けている心の基盤を壊してまで刷新すべきとは思わない。揺るぎないから『礎』というのであり、フェールダムの場合、安全で美しい干拓地こそが礎ではないか。 
あまりにメイヤーが「リビルド、リビルド」と連呼するので、彼はとうとう口を挟んだ。 
「必ずしも進歩が最善とは限りませんよ」
ヤンが慌てて彼の脇腹を肘で突っついたが、彼は構わない。
「あなたの言葉は非常に聞こえがいい。だが、それでフェールダムが救われるかといえば、はなはだ疑問です。あなたは本当にここに暮らす人々の気持ちを考えたことがあるのですか」
「ここに暮らす人々? どこに人々が暮らしているのかね。フェールダムは壊滅した。元住民でさえ戻ろうとしないゴーストタウンだ」
「戻ってないのは身体だけです、心は常にこの地に繋がれている」

「だったら、なおさら機能的で新しい都市こそ帰郷の求心力になると思わないかね」
「思いませんね。住民が望まぬものを作っても、数年後には回収不能な巨大ゴミになるだけです」
今度こそ本気でヤンが彼の脇腹を突き、演壇の脇に控えていた係員らも顔を見合わせた。だが、係員が動く前に、彼の方で席を立った。
「フェールダムをどうしようとあなたの勝手だが、果たしてこの地にあなたのリビルド哲学が根付くでしょうかね。なぜ、数百年の長きにわたって、この干拓地に人々が住み続けたのか、一度じっくり考えて下さい。たとえ臨海都市が建設されても、フェールダムの住民が数百年先まであなたに感謝すると思ったら大間違いですよ

海洋小説『曙光』MORGENROOD(上巻)


阿月まり
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